明礬製造の歴史

入江秀利さん(別府市文化財調査員)のお話

●はじめて明礬をつくった人

  別府ではじめて明礬をつくった人は、肥後の国の八代の渡辺五郎右衛門で、浜脇の孫四郎の家に泊まっているうちに、野田村と鶴見村で明礬を作り始めるのです。それが江戸時代前半の寛文四年のことでした。

  明礬は、媒染剤といって染物の色を鮮やかに染め出したり、収斂剤として止血や下痢止めの薬になったり、なめし革をつくるときなどに重宝されました。

  脇屋家に残る「明礬山始まり覚」によると、五郎右衛門は何回試みても失敗したので、長崎で薬種問屋に奉公している弟を訪ねて長崎に行き、そこで唐人から明礬製法の極意を教わって成功したということです。結局、明礬を純白に結晶させる方法が分からなかったのです。その結晶させる極意は灰汁(あく)を入れてやることだったのです。

  八川を境にして向こうが森藩の鶴見村でこちら側が幕府領の野田村ですが、五郎右衛門は、その両方で明礬山を開発しました。

  面白いことに森藩の記録では「渡辺兵衛(五郎右衛門)は湯ノ花を煮ている鍋の中にふとタバコの灰を落とし、それが結晶を作るのを」発見したことになっています。

  明礬が最初に作られたのは鶴見村の鍋山でした。ここは、のちに硫黄が良くとれたそうです。今では何も残っていませんが、露天風呂のあたりの山肌が黄色いのはみな硫黄です。

  ところで、渡辺五郎右衛門は明礬の製造には成功したけれでも、設備投資の資金が底をついて山を捨てました。

  なぜなら、明礬製造は、大がかりだから。地面に噴気が通る溝を掘り、その上に小石を積んで藁をかぶせて、硫黄分を含んだ土を置いて、その上に糀土(こうじつち)という青粘土を敷き堅めた地場をつくる。やがて青粘土の上に明礬ができてくるんですが、明礬を多く採るには地場をたくさん作る大がかりな設備がいったからです。

●脇(屋)儀助、唐明礬を閉め出す

  いま、明礬温泉で『湯の里』を経営している脇屋家の先祖は新田義貞の弟、脇屋儀助(よしすけ)です。

  儀助は南北朝の戦いに敗れて四国へ逃れ、子孫の脇八郎次郎の時代に九州へ移り、豊岡の小浦村の庄屋になります。その子孫の脇儀助は庄屋職を弟に譲って、五郎右衛門の跡をついで鶴見村や野田村の明礬山を開きました。

  儀助は五郎右衛門が果たせなかった明礬製造を一生懸命に研究して、独自に灰汁の調合を編み出して、唐明礬に勝るとも劣らない和明礬の製造に成功しました。いま、明礬の山のいたる所に「灰の木」の林があるのは、灰汁を取るためにわざわざ宮崎や佐賀から移し植えた「灰の木」が残っているのです。

  こうして、苦心してせっかく成功しても、清国から輸入される唐明礬の値段が安くて、価格の面ではどうしても勝てなかった。結局、幕府の力をかりて唐明礬の輸入を禁止するしか方法はなかったのです。大坂で明礬を扱っていた近江屋と一緒になって何度も幕府に訴えましたが、なかなかうまくいきませんでした。

  そこで脇屋家の遠戚の宇佐神宮宮司と近江屋がじっこんの西本願寺の役僧を仲立ちにして、日田代官所の代官の後ろ盾で、多分賄賂も贈ったのでしょう、幕府の和薬御吟味係役医師で有名な丹羽正伯の吟味を受けることになりました。正伯が弟子の医師たちに、その明礬を使わせてみたら、和明礬の方が唐明礬よりも良いという報告があり、享保十五年、ついに幕府の命令で唐明礬の輸入禁止にこぎつけたわけです。

●明礬会所(独占販売所)ができる

  しかし、スムーズにはいきません。障害が起きました。いままで長崎で唐明礬の輸入にたずさわって稼いでいた、長崎の商人と朝廷の染物をする染師の反対が起こったのです。

  公家や武家によく用いられた茶色の染物は、明礬を使うと一番きれいに染めあげることができました。

  幕府は朝廷をバックにした商人や京都の染師の反対運動に押されて、とうとう五万斤の唐明礬の輸入することを許可しました。

  せっかく唐明礬が輸入禁止になったのに、驚いた儀助はさっそく長崎の商人と話し合って、唐明礬の五万斤は儀助が商人から買い取り、自分で精製し直して売り出すことにしました。これで唐明礬の輸入の件は解決しました。
  ところが困ったことに、箱根や霧島などの火山地帯で製造された安い国産の明礬が売り出されるようになりました。これらは、野田山や鶴見明礬山で製造された豊後明礬に比べると質が著しく劣るので、儀助は品質を高めるために、唐明礬と同様に一手に買い込んで、精製し直して売り出すことにしました。

  それでも、国産明礬の安売りが続き、再三にわたって値崩れが起こりました。そこで儀助は幕府に多額の運上金を献上して、江戸と大坂に明礬会所(専売所)をつくってもらい、全国の明礬の生産と販売を仕切ることにしました。これが明礬の専売の第一歩になりました。

  ところが「脇売り」といって会所を通さない闇の国産明礬が盛んに出まわるようになりました。それで、運上金を増して更に京都と堺に会所を開く許可を取って四都市に明礬会所をつくりました。これで脇屋と近江屋が明礬の生産販売を完全に独占することになりました。それに伴って幕府に納める運上金は最初の六倍に増えています。

  当時、日本に出まわっていた明礬は約二七万一千斤で、豊後明礬は十六万斤。全国生産量の約六十パーセントを占めていました。そのうちに唐明礬の輸入が完全に止まると、七十パーセントにもなりました。会所の利益も莫大になりました。儀助は、その利益の中から飢饉や災害のとき農民たちの救済のために遣っています。

●製造業のリスク

  明礬会所は、生産を受け持つ脇屋と販売に携わる近江屋と同等な立場で経営をしていました。

  しかし困ったことに明礬の製造は自然が相手だから、お天気に左右されます。地獄の噴気(ガス)で竹のショウケや樽などの道具が傷んで長持ちしません。また、大雨で流された地場の築きなおしや、多くの堀子の面倒も見なければならず、そのためにたくさんの資金がかかりました。

  脇屋は災害のたびに山林や田畑、家まで担保にして、近江屋から借金してその場を過ごしました。当然ながら借金が多くなると会所での地位が揺らいでくる。そのうち儀助は老衰、養子の儀左衛門は若年を理由に、会所から手を引いて地元で明礬の生産に精を出すことにしました。

  このことで、脇屋は明礬山の権利を持ったまま会所から手を引いたと言い、近江屋は借金のかたに脇屋が権利のすべてを投げ出したと、言い分けが食い違ってきました。

  両家の関係のもつれが一挙に噴き出したのは天保の改革でした。

  幕府は物価を吊り上げているのは、会所などの独占販売者だと決めつけて、専売業者の組合「株仲間」の解散を命じました。明礬の会所も解散させられて、明礬はそれぞれの生産者が自由に売ってもよいことになりました。「直売」といいます。日本中の明礬生産者はいっせいに「直売」をはじめました。

  脇屋は資金をつぎ込んで地場をつくって鶴見明礬山を、森藩に取り上げられてショックをうけました。そんなこともあって、儀左衛門はいままで山に蓄えていた明礬の「直売」をはじめたのです。

  たちまち近江屋との間にトラブルが生じました。近江屋は、幕府の勘定奉行に脇屋に「直売」をさせない訴えを起こしました。近江屋の言い分は、「脇屋は、近江屋の明礬山を預かる使用人だから勝手なまねはさせない」というのです。

  結局、双方が折れて脇屋に有利に決着しました。やはり、生産者が強かった。

明治になると、明礬に替わる化学染料がドイツから輸入されるようになり、生産に手間や多額の費用がかかる和明礬の製造は終わりました。

いま、明礬地域にある湯の花を取る小屋は、昔の地場を利用しているのです。いまの別府市明礬の地名は、江戸時代に幕府の専売品として全国に名を馳せた野田・鶴見明礬山の名残りをとどめているのです。


大分みらい信用金庫創立80周年記念
別府-温泉読本『ふるさとの遺産』シリーズ①(p30~p33)から引用