忌避剤の歴史

 古くから人類は様々な害虫による被害に脅かされてきた。例えば、直接人畜に悪影響を及ぼす吸血、刺咬性害虫としてはカやブヨが挙げられ、食品汚染や品質低下をもたらす害虫としてはコクゾウムシやゴキブリ、コナダニなどが、衣類の害虫としてはイガ類やカツオブシムシなどが、家具や建材の害虫としてはシロアリやヒラタキクイムシなどが挙げられる。このように、広範囲に渡る害虫被害に対し、古くからその影響を低減するべく様々な防御・駆除手段が講じられてきた。その代表例として、有機リン系や有機塩素系、ピレスロイド系、カーバメート系などの殺虫活性を持つ合成薬剤の開発が挙げられ、現在でも幅広く使用されている。中でも、1940年代に開発されたDDTやBHC、パラチオンといった有機合成殺虫剤は、衛生害虫や農業害虫の防除に大量・広範囲に使用され、日本でも戦後その使用量は急増した。しかし、過剰に使用された結果、殺虫剤抵抗性や食品への農薬残留などの弊害を引き起こし、1970年前後にはこれらの薬剤の製造は制限・禁止されることとなった。このような背景から、近年では、合成薬剤を低毒性、低残留性、高選択性へと改良することで、より安全な害虫防除を確立するための努力がなされてきた。しかし、これまで使用されてきた薬剤による悪影響が自然生態系のみならず、人間の健康に対しても危惧されるようになり、更には上記のような問題点も依然として憂慮されている。このような環境への負荷を軽減し、有効な防除効果を得る為には、「総合的害虫管理(IPM;Integrated Pest Management)」といった手法が重要となってくる。

 IPMとは、「あらゆる適切な技術を相互に矛盾しない形で使用し、経済的被害を生じるレベル以下に害虫個体群を減少させ、かつその低いレベルに維持するための害虫個体群管理システムである」と定義されるものである。この考えには、害虫を農地から完全に除去する必要は無く、経済的な被害が生じない範囲ではその存在も許容しようという考えが含まれており、薬剤のみに依存した防除を考え直すことも提案している。IPMでは様々な防除法を組み合わせて利用する。その方法として、農薬などによる直接的な殺生物法の他に病害虫に対して抵抗性を持つ栽培作物の作出などが挙げられるが、それらの手法の1つに植物精油成分などを用いる忌避法が注目されている。

成虫および幼虫齢の害虫の侵入や摂食、産卵などの行動を制御することによって被害を防ぐ方法を忌避(repellent)法という。生物がある種の化学物質に対して方向性の反応を示すことを走化性と呼ぶが、刺激物質や匂いから遠ざかろうとするのが負の走化性(忌避)であり、これを利用して害虫を防除する薬剤が忌避剤である。
忌避剤の歴史自体は古くから報告されているが、そのほとんどは経験的や伝承的なものである。昆虫を対象とした忌避剤の一例としては、雑草や大麻などの燻焼による虫の吸血や飛来の防止が挙げられる。さらに、中国の古典には1200種の防虫・殺虫植物が記録されており、古くから植物の持つ防虫効果が注目されていたことが伺える。また、動物に対する植物の忌避効果については、「ハッカ畑にはモグラがいない」、「シソを植えた畔は犬や猫が通らない」など数々の伝承が存在し、その中には現在市販されている忌避剤の開発に一役買っているものも少なくない。現在、忌避剤の原料として実用化されているものとして代表的なDEET(N,N-diethyl-m-toluamido)は、ゴキブリ、ダニなどの衛生害虫、蚊やアブなどの吸血性害虫に対して忌避効果を持つことが報告されており、広範囲に活用されてきた優れた合成忌避物質である。しかし最近、人体への毒性が危惧されるようになり、その使用には規制が生じてきている。
DEET.jpg

 これらの合成忌避剤を用いるメリットとしては、殺虫をともなう防除法では害虫に対する選択圧が高いため、害虫に対して抵抗性を発達させる可能性が高いが、忌避法においては選択圧が低く、作用範囲を任意に設定することが可能であり、またその作用が直接的でないために抵抗性の問題が軽減されると考えられる。また、植物精油等は天然物由来のものであるため、殺虫剤等の薬剤に比べて容易に代謝分解されるために残留毒性などの問題を回避出来る利点もある。このような利点を有するにも関わらず、忌避剤がこれまで一般にあまり浸透していない原因の一つとしては、その効果が殺虫剤等と比べて緩慢であり、使用前と使用後の違いが顕著に表れにくいことが挙げられる。これは、安全性を考慮した場合には利点でもあり、今後はその認識を持った上での忌避剤の使用が必要となる。その上で、忌避剤の有効活用には単独での使用だけでなく、合成薬剤の使用量低減を目的とした薬剤と忌避剤の併用が重要である。これはゴキブリ等の衛生害虫の防除に限らず、あらゆる害虫に対して考慮すべきものである。

 精油に含まれる忌避活性成分の多くは揮発性のものであり、揮発性の高さは忌避効果の即効性という長所に繋がる。これは、言い換えれば残効性が低く、環境中に残りにくいという意味においても長所であるが、時間の経過とともに有効成分が低下することで長期間効果が持続しないという意味では短所と言える。精油に含まれるテルペン系の成分の中で炭素数が少ないものは、揮発性には優れるが持続性が低いという欠点があり、逆に炭素数が多いものは揮発性に乏しい事から忌避効果が発現しにくいという欠点を持つ。これらの欠点を補うべく、いくつかの有効成分を組み合わせて忌避効果の向上を図ったり、徐放性のある薬剤と共に用いることで忌避作用の遅延効果を誘導するなどの工夫がなされている。このように、植物由来の精油をベースとして忌避剤を開発するには様々な改善・改良が必要であり、加えて精油の中には、人によっては刺激や不快として感じる化合物も少なくないことから、香りが少なく、揮発性が高く、かつ長期間持続効果を有する化合物を開発することが、優れた忌避剤を作出する重要な鍵となろう。

引用文献
林陽ほか, 動物忌避剤の開発, シーエムシー出版(1999)
駒井功一郎, 香料, 77-83(2009)
中筋房夫, 昆虫学セミナーⅢ 個体群動態と害虫防除, 冬樹社(1989)
中筋房夫, 昆虫学セミナー別巻 自然・有機農法と害虫, 冬樹社(1990)
Syed, Z. et al., Proc. Natl. Acad. Sci. U. S. A., 105, 13598-13603(2008)
山本出, 農薬開発の動向-生物制御科学への展開-, シーエムシー出版(2003)